2009年2月27日 (金)

狩野永徳

051 021 041  狩野永徳は1543(天文12)年山城国に足利将軍家御用絵師、狩野松栄の長男として生まれました。細密な真体画を得意とする祖父元信の画風に大きな影響を受けて成長しました。また自由奔放な草体画をなした父松栄の画風をも学び、大和絵の伝統的な画題に漢画の手法を折衷して、狩野派画法を大成し、宗家5代目として活躍したのです。最初将軍足利義輝に仕えましたが、その後狩野派一門を率いて織田信長の安土城、豊臣秀吉の聚楽第など、邸内大壁面に金碧画を描き、桃山美術の世界をリードしました。また徳川家康や宮廷にも政治的布石をして狩野派の地位を盤石不動のものにしたのですが、父松栄より早く、1590(天正18)年43歳で惜しくもこの世を去ってしまいました。(写真左は、代表作「唐獅子図屏風」です。この勇壮な屏風は織田軍が毛利攻めの最中、羽柴秀吉の陣中にしつらえていたとされるものです。中は、「松鷹図屏風」です。本図は大和絵伝統の常磐の「松図」に武家好みの「架鷹図」を組み合わせたもので、桃山美術の雰囲気をよく伝える作品だと言われています。左は、「源氏物語図屏風」です。大和絵の画題「源氏物語図」の中から「若紫」の段を描いたものです。内容は「アーティストジャパン013号」を参考にしました。)

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2008年12月 6日 (土)

伊藤深水

011 031 044  鏑木清方を師と仰ぐ伊藤深水(1898-1972)は、歌川國芳-月岡芳年-水野年方-鏑木清方と受け継がれた浮世絵歌川派の流れを近代に続く強力な画系として、とくに歌川玄冶店派(げんやだなは)と呼ばれている、その最後の人なのです。1987(明治31)年東京の深川に生まれた深水は13歳の時、清方の弟子となります。その翌年、巽画会第12回展に出品した「のどか」が初入選。この天才少年の出現にいきなり世間の注目を浴びることになったのです。その後大正末には20代の半ばで美人画家の名を決定的にしてしまいます。昭和初期にはたんなる美人画にとどまらず、人物画にリアルで情調的な画風を展開、戦後には艶麗な線描やクリアな色調にユニークな画境を確立しました。その美女たちは着物の上に顔があるのでなく、着物の中に中身があると評され、健康的でエネルギッシュな肉体感が特長とされています。大正、昭和と活躍した伊藤深水は1972(昭和47)年74歳で生涯を終えました。(写真左は「三千歳」1950-51年の作です。中は「宵」1933年の作です。腰巻がほんのりピンクに透けて見え、このうえなく色っぽく見え、微風に揺れる簾のウマオイが、翡翠のかんざし呼応しています。右は「鏡」1947年作、昭和22年第4回日本芸術院賞を受けた作品です。記述内容は「アーティストジャパン11号」を参考にしました。)

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2008年9月 9日 (火)

尾崎正章展に行った

011_2 021 031  夏休み帰省した折りに「周南市美術博物館」で開催されていた「尾崎正章展」に行ってきました。尾崎正章は明治45年(1912)山口県徳山町油屋町(現周南市本町)の医者一家の次男として生まれ、平成13年(2001)に89歳で生涯を終えた画家です。尾崎は私の出身地周南市福川に住み内科医院を経営する医者の奥さんの働きによって画業に没頭することができた実に幸せな方だったように思います。私も奥さんの九重さんには子供の頃大変お世話になり命を助けていただいた一人です。尾崎は故郷の海、港、人々を描きました。私は油絵の良さが理解できないので良い絵なのかそうではないのかの判別がつきませんが「一水会」の重鎮であった方ですので、見る人が見れば良さが解かるのではないかと思います。私の従兄が尾崎と懇意にしていて絵のモデルにもなっていて私としては近親感あふれる画家のひとりです。(左は「瀬戸内のいわし網漁夫」1970年、中は「夫婦漁船寄港」1995年、右は「駅裏」1983年、いずれも故郷の海、港、人、がモチーフになっています。)

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2008年1月21日 (月)

喜多川歌麿

2 2_52_6   喜多川歌麿は、寛政年間(1789-1801)を代表する浮世絵師です。30年に及ぶ作画生活のなかで、歌麿はおびただしい量の作品を残していますが、浮世絵史上で彼の評価を不動のものにしているのは、版元蔦屋重三郎との連携で生み出された、狂歌絵本と美人画にあります。ことに、美人画は彼の本領とするところで、在世当時の人気だけでなく、後進の絵師たちに大きな影響を及ぼしているのです。寛政年間以後、全盛を極めた歌麿ですが、1806(文化3)年、前々年の当局による処罰(「絵本太閤記」を錦絵にしたかど、当時武家を実名で扱うことはご法度だったのです。)の傷跡も癒えないうちに、53歳でこの世を去ってしまいました。歌麿の作品を語るとき、真っ先にあげられるのが、美人大首絵です。歌麿芸術の精髄はこの大首絵にあり、彼が浮世絵界のスターダムに昇りえたのも、美人大首絵での成功によるものなのです。鳥居清長、北尾重政など、歌麿に先行する人気絵師たちが、美人の魅力を全身のプロポーションで見せようとしてきたことを考えると、歌麿の大首絵の試みは、画期的なものであったといえると思います。(左の絵は、「浮気之相」 浮ついて多情な女の典型を、みごとに描きだしています。美人を観察する目に大きな自信をもっていたことが伺えます。中の絵は、「夏姿美人」本図は手鏡を手に、化粧をなおす美人の姿を描いたものですが、彼女のしぐさからは、上品な色気が漂っています。また、薄物の夏衣裳の質感表現もすばらしい。左の絵は、「当時全盛美人揃 玉屋内小紫」 当時全盛美人揃は、吉原を代表する名妓たちの座像を七分身で描いたシリーズです。小紫は玉屋山三郎抱えの売れっ子で、どこかしら娘らしさを残した控えめな色香が感じられます。内容はアーティストジャパン10号を参考にしました。)

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2007年11月30日 (金)

竹久夢二

2_4 2 2_2 大正ロマンの象徴、竹久夢二は1884(明治17)年に岡山県の裕福な造り酒屋の息子として生まれました。1934(昭和9)年50歳で生涯を終えるまで、数多くの美しい女性達と恋の遍歴を繰り返したした画家として有名です。哀愁の歌曲「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬそうな」この「宵待草」の詩は1912(明治45)年に作られたものに、多忠亮が曲をつけて、1918(大正7)年にセノオ楽譜から出版されたものです。物悲しい旋律は心に染みて、大正ロマンの空気を今に伝えています。夢二がこの詩を書いた時期は最初の妻「たまき」と別れ、銚子犬吠岬の近く海鹿島でひと夏を過ごした時のことです。美しい娘「長谷川カタ」に切なくも激しい恋をしたのです。しかし、この恋ははかなく終わってしまいます。この片恋のやるせない気持ちを夢二は宵待草の詩に託したのです。いくつもの恋を重ねながら夢二が求めつづけたものは、地上には決して存在しない画家自身が創り上げた永遠の女性像だったのです。男は愛を信じて永遠を誓わず、女は愛を信じずに永遠を誓いたがる。男と女の異なる愛のかたちを知りつつ、夢二は恋に溺れていったのです。永遠に交わることのない愛。それゆえにこそ夢二は女たちを哀れみ、かくもせつなく描いたのではないでしょうか。(写真左は今日の主題の「宵待草」です。真中は「遠山に寄す」1931(昭和6)年の渡米告別展出品作です。寄り添う男女でさえ、異なる世界を見ています。晩年の心境を伝える一作です。右は「女十題 朝の光へ」1921(大正10)年作です。うつろな女の眼差しには、はかない人生観が投影されています。:内容は「アーティストジャパン8号」を参考にしました。)

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2007年5月14日 (月)

雪舟

13 22_1 33  雪舟ほど広く名の知れわたった絵師はいないと思います。にもかかわらず、生まれたところも、亡くなった土地も漠然としており、しかも、前半生についてはほとんど分からないのが実情です。我が国最初の画人伝「本朝画史」(1693年刊)によると、雪舟は小田氏の1人として、備中の赤浜(総社市)で生まれたと書かれています。宝福寺の修行時代、修行に身を入れないため、師匠によって柱に縛りつけられた雪舟が、足の指を使って、落ちる涙でネズミを書いた話はあまりにも有名です。早熟で卓越した技量を誇る偉大な芸術家にはつきものの逸話なのです。左の作品は、「山水図」雪舟晩年の作品です。岩の上に前後に立つ2本の松。それと十文字に交わる対岸の遠山が画面に安定感を与えています。真中の作品は、「破墨山水図」紙(絹)の滲む性質を逆手にとって絵を描く発想は、明確な形を要求する西洋には思いもつかないものでした。この発生は中国にあり、わが国では長い間線描が重視されたため、水墨画が描かれるようになってからも、こうした技法は根づきませんでした。中国で修行した雪舟はこの技法は水墨画家にとって極めて重要なものだと考えていたようです。右の作品は、「秋冬山水図」この作品は雪舟の特色が全て備わっており、雪舟の代表作と言っても過言ではありません。城市の入り口には対話する人物を配し、楼閣を焦点として、岩、崖、山がまるでカメラの絞りのように円環をなしています。これらの作品を眺めてていると自然に心が落ち着いてくるような気がします。(記載にあたっては、「アーティストジャパン7号を参考にしました。)

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2007年5月 3日 (木)

冨弘詩画集より

021 011  「星野冨弘展」を見に行きました。原画を見ると冨弘さんの息づかいまで聞こえそうです。やさしくて、おだやかで、作者の愛が心に沁みてきます。感動しました。お土産に絵はがき第一集「ぺんぺん草」と第七集「小さな花」を買ってきました。写真は第一集「ぺんぺん草」の中の2枚です。母がモチーフになっています。じっと見ていると花の中に詩が溶け込んでいくようです。(写真左は母子草です。右はバラの花です。)

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2007年4月 9日 (月)

上村松園

12 22 32_1  松園の製作の核をなすものは明治の風俗美人ではない。ほとんどが王朝から徳川期、特に文化文政時代(1806~1829年)を扱った端正で典雅な格調の高い表現です。有識故実を克明にさぐり、その衣裳表現や鬢(びん)、髱(たぼ)、前髪、髷(まげ)から構成される髪形にも考証をおろそかにしない。色彩には平安時代中期に完成した「和様」の色感が生きているとも言われています。しかし松園の美人画には、歴史画の硬さはなく、つねに松園自身のやわらかく雅やかな世界があります。こうした境地をさらに高めたのが「砧」に代表される能に材を得た作品であろうと言われています。写真左は「娘深雪」1914(大正3)年です。朝顔日記の女主人公深雪をモチーフにしたものです。写真中は「母子」1934(昭和19)年です。花鳥の絵に美しく彩られた斑竹の前で赤子をいつくしむように抱く母。明治中期の京の良家の御寮人の風俗です。写真右は「序の舞」1936(昭和11)年です。何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志をこの絵に表現したかった、と後に松園が自解しています。上村松園は、明治、大正、昭和、に活躍した数少ない女流画家の一人なのです。(記事の内容は「アーティスト・ジャパン6号」を参考にしました。)

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2007年3月16日 (金)

東洲斎写楽

Photo_8 Photo_9 Photo_11  東洲斎写楽は1794(寛政6)年5月頃から翌年の1月頃にかけて浮世絵版画を発表、以後忽然と姿を消した謎の絵師です。その9ヶ月間に製作された作品のうち、現在144枚が確認されています。その作風は役者の芸質、芸格、役柄の本質までも透徹した眼で捉え、誇張を交えて表現しています。ドイツ人のクルトが世界三大肖像画家と激賞した写楽は、今や世界の巨人となりましたが、その生涯は濃い霧の中です。そして、写楽画の解明には当時の役者絵の制作状況の分析が欠かせないと言われています。写真左は「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」です。突き出してねめつける魁偉な容貌と、懐から出し胸前に広げた両手の印象が強烈です。描き損ねたとしか思えぬ手が驚異的なエネルギーを放っています。写真中は「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしづ」です。粘り強くくねった線質は写楽独特のものです。女形を描いたなかでは最も傑出した1図だと言われています。写真右は「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川」です。俗に梅川忠兵衛と呼ばれる悲恋物語で、図は二人が故郷へ落ちて行く道行き。高麗蔵が悲壮感、富三郎が甘美さを象徴し、二人の息づかいまで聴こえてくるようです。1795(寛政7)年1月、突然写楽は、版元蔦屋重三郎のもとを離れ、何処に行ってしまったのだろう?。知りたいなぁ。(記載内容は「アーティスト・ジャパン5号」を参考にしました。)

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2007年3月 6日 (火)

尾形光琳

Photo_7 Photo_7  尾形光琳(1658-1716)は17世紀に活躍した宗達の芸術を受け継ぎながら、独自の意匠的な構成によって、金地に鮮やかな色彩を駆使した装飾的な画面に新しい時代の美を追求していった絵師と言われています。光琳は京都の呉服商雁金屋の次男として生まれ、陶芸家で有名な乾山は5歳下の弟にあたります。派手で社交好きな光琳は能を趣味に持ち裕福な生活をしておりました。ところが17世紀も終りに近づき、江戸初期型の商人の多くが没落していく中、同じく雁金屋も経済苦境にたたされ店をたたみます。光琳35歳の頃です。そのことがきっかけとなって、光琳は自活の道を考え絵師への志を固めていったようです。現在知られる最も早い光琳画は40歳頃からの製作と言われています。また、およそ20年ほどの芸術家としての活躍の中で、短期間のうちに宗達、雪舟、雪村らの影響を消化しつつ、目まぐるしく画風展開を遂げた点でも特異な存在です。(写真は俵屋宗達の代表作「風神雷神図屏風」の模写です。色感や空間感覚等には光琳風の表現が見られ、古い絵をみずからの創意で新しく蘇らせようとする光琳の意気込みが感じられます。内容は「アーティスト・ジャパン4号」を参考にしました。)

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2007年2月23日 (金)

東山魁夷

Photo_6 風景画家として生涯を送った、東山魁夷は、その芸術の出発点を自然の中に置いていると言っています。自然の中で新鮮な空気を吸い、太陽の光を受け、草や木のいのちのリズムに耳を傾ける。私は画家としてよりも人間として、生きている。「私は画家である前に人間である」と書の中で述べています。東山魁夷の作品の基調は青です。青は、清浄、郷愁、静寂、孤独などを感じさせる色調です。赤や黄に比べて目立たず、外に向かって自己主張するよりも、自らの内に沈潜する傾向があるのです。魁夷がとりわけ青を好むのは、もって生まれた資質と、それ以後の人生経験の結果でもあるのだろう、と推測されます。写真は63歳から73歳までの10年間を費やし、渾身の力を込めて製作された、唐招提寺の障壁画の中央部分です。この障壁画は唐招提寺と言う歴史的建造物、しかもその中の鑑真和上像が安置された、最も厳粛な場所、御影堂を荘厳するためのものです。人生かけたこの大事業に東山魁夷は深くこうべを垂れ、筆を運んだと言われています。(写真下は全景です。記載にあたっては「アーティストジャパン3号」を参考にしました。)2

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2007年2月13日 (火)

横山大観

Photo_5  北斎を始め、富士山は多くの画家が描いてきました。横山大観もその一人です。1902(明治38年:34歳)ころ、初めて立山に登り、そこから見た雲海の富士に感動し、以後、富士の画家と言われるほど多くの富士を描きました。現存の富士の画で500点近くあるので、生涯にこの倍くらいは描いているだろうと言われています。大観は、「富士を描くことは自分の心を写すことだ」と口癖のように言っていたそうです。三宅雪嶺の「富士人格論」に共鳴して、宝永山のない、すなわち人間としての欠点をみない完全な富士を理想として描きました。そのため最も形のよい富士の見える伊豆の達磨山からの眺めにうたれ、山全体を買い取ろうとしたことがあったそうです。写真の富士は、1940(昭和15年:72歳)の作品で、数ある富士の中でも水墨によるひときわ格調高い一作です。ようやく東の空に赤みがさし始め、今まさに夜明けを迎えようとしています。麓の杉木立はまだ眠りからさめやらぬようで、静かな時の流れを感じさせます。いまだ眠りから覚めぬ神秘的な富士を、だれが描きえただろうか。正に名品中の名品です。(霊友会妙一記念館蔵:内容はアーティストジャパン第2号を参考にしました。)

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2007年2月 7日 (水)

葛飾北斎「富嶽三十六景」

Photo_4  私は最近「アーティストジャパン」(日本絵画の巨匠たちの美術全集)の購読を始めました。この雑誌は毎週発行される週刊誌です。写真が綺麗で面白いので毎週届くのを楽しみにしています。この雑誌の第一号が「葛飾北斎」です。北斎が「富嶽百景」の跋文に記したところによると、70歳までの画業は取るに足らないものであった。110歳まで生きられれば、一筆一筆が生きているように描ける。と自負しています。しかし、彼は90歳で無念のうちにこの世を去りました。北斎風景版画の白眉とされる「富嶽三十六景:全46枚」は、1831(天保2)年から33年に刊行されたようです。写真の「山下白雨」は、画面上方、富士山頂近くは快晴の空。下半分は漆黒の雨雲に覆われ、巨大な稲妻の光が黒雲を引き裂く。山下の雨天と山上の快晴を一画面に対比して描き、気象状況の激変に全く動じない富士の勇姿を極めて印象的に表す趣向は意表をつくものです。70代前半の北斎の旺盛な創作意欲を雄弁に語るこのシリーズが、彼の名前を世界的に不朽のものとしたことは、周知のとおりです。北斎も「老いてなお盛ん」だったのです。すごい。(アーティストジャパン第1号の記事より抜粋しました。)

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2007年1月23日 (火)

幸せが舞い降りる

Photo_3  以前にも星野冨弘さんのことを書きました。ジャフの小冊子「JAF Mate」1・2月合併号の表紙裏の口絵に、詩とイワシの絵が描かれたものが載っていました。星野冨弘さんは24歳のとき、体育教師として指導中に頸椎損傷をして、首から下の運動機能を失ってしまいました。以来、絵や詩は筆を口にくわえて描いています。体のハンデイに負けず頑張っている姿に私達も勇気付けられます。今月号の詩です。

いわしを 食べようと くちをあければ
いわしも くちを あけていた
いわしを 私のくちに運ぶのは母
見れば その母の くちも
アーン と大きく 開いていた

いわし は水から 干された ため
私は それを食べるため
母は 子を思う心から

たえまなく 咀嚼を続ける
”時”という 口のまっただ中で
二人と 二匹の いわしが精一杯くちを開いている
ささやかな 昼めし時

「大きく開けた口の中に幸せが舞い降りることもあります」:星野冨弘コメント いわしを通して、母の愛が私達の胸に響きます。(写真は今月号の星野冨弘さんの詩画です。)

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2006年10月 2日 (月)

この手で冨弘さんの半分の絵を描きたい

Kodomo  私は暇な時に水彩画を描きます。目的物を簡素に無駄なく美しく描きたいのだけど、何度描いても旨く描けません。毎月一回JAFからジャフメイトと言う小冊子が届きます。この冊子の目次の挿絵に星野富弘さんの詩画が使われています。毎月楽しみにしています。私も富弘さんの半分でいいから腕がほしい。と言っても富弘さんは手も足も動かないのです。中学校の教師をしていた、23歳の時クラブ活動の指導中、頸椎を損傷して手足の自由を失いました。彼の偉いところは、その失望から這い上がり2年後、入院中の25歳の時、口に筆をくわえて文や絵を描き始めました。私なら多分その様な挑戦意欲が沸かないだろうと思います。失望に打ちのめされて生きているだけの状態だったと思います。その後も口で絵を描き続け1982年、36歳の時、高崎(群馬県勢多郡東村出身)で花の詩画展を開催します。以後全国各都市で開かれた詩画展は見学者の大きな感動を呼びました。出身地の東村に東村立富弘美術館が出来ていて、作品は公開されています。もう一度言う。私はこ手で冨弘さんの半分でいいから、絵を描きたい。写真は冨弘さんの作品です。

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